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スゴ本。究極の没入感。まるで映像。読み終える頃には自我が溶けてクララと同化していた。

最近、体力的に本を通しで読むのがおっくうで、開いちゃ閉じて開いちゃ閉じてを何度も繰り返すことを余儀なくされていたのだけれども、本書は最後まで一気に読めた。いや、いつの間にか読み終わっていたという表現のほうが適切かもしれない。

AI ロボット × カズオ・イシグロ。死 × シニリズムへの抵抗。感情を持つほどに高度な知性を持つロボット、その動きから人間を人間たらしめている要素をリバース・エンジニアリングよろしく解析できるおもしろさ。知識で語らず背景で語る筆致。断絶。映像が文字に落とし込まれている。いわんや、文字から映像が浮かび上がる。陽炎のようにおぼろげな形ではなく、4DX のような匂いと振動と音響と視覚情報を介して。

まぎれもないリアル。

SF が好きな人だけでなく、SF に馴染みがない人にも間口が広い一冊。

あらすじ

クララは子供の成長を手助けする AF(人工親友)として開発された人工知能搭載ロボット。店頭から街ゆく人びとや来客を観察しながら、自分が購入されることを待っていた。そんな折、ジョジーという病弱な少女の家庭に買われ二人は友情を育むことになるのだが、一家には驚くべき秘密があった。

AI ロボット題材において明確に意識されるものといえば、アイザック・アシモフ「ロボット三原則」だろう。具体的には、『われはロボット』で示された物語において、「ロビィ」しかり「堂々めぐり」しかり第三者的視点から語られることが多い。一方で、本書は AI ロボットの主観で語られる。成長過程や感情操作を詳細に記述するアプローチ。ただ、だからいって「人間らしく」作られたような弊害として、感情によって予期せぬ情動反応をみせるわけでもない。クララには感情があるが「自己」がない。あくまで、クララをクララたらしめるのは、従属するものからの命令と、太陽光で「生きて」いるため、陽光を燃料以上の存在の源とみなしていていること由来の太陽信仰くらいだ。

それはまさしく、物語の終盤に、

特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。

p. 478

と、語られることへとつながる。

クララもきっと、彼女を愛する人々がいる限り存在し続けるのだろう。

BIG LOVE.

おはようございます。

最近、一日中酒飲んでます。飲んだくれ人生バンザイ。はい。

2年間近く、 てか、ぎゅって握ったら3日間くらいに圧縮できるレベルで、 僕、書評を書いてきました。

んで、書評のありかたってのが、書き始めた当初と比べてえげつねーくらい変わってきた気がするんすよ。

そういうのを頭の中でぽやっとしたままにしとくのも何か腹立つので。

ちょっちこの場で整理していきてーと思いやす。

結論からいうと、知識のアウトプットという目的から、いかにして売り上げを立たせるか、っちゅうのにシフトしていってる感じ。

てのも、数字としてわかりやすくやったことを認められるの、スッゲー気持ちいいんすよね。 射精ばりに。

書評を始めた頃は、「やべぇ、僕、成長してるぅ」って、だましだまし自分を説得させ続けて。

いや、そういう根拠のない自信を持つのが得意な気もするけど。

数字の持つ魔力ちゅうのはえげつないんすわ。

初めて購入していただいた日のことはいまだに覚えてて、全裸で上野公園をかけずりまわりたい衝動にかられたレベル。

自己満でやってきたはずのものが、その向きでもあながち悪くねぇと形として知れると、救われる気がするんすよなぁ。

じゃあ、どうやったら売れんのかってのを考えたとき、どれくらいの濃さで本の内容に触れるべきなのかっちゅうのが今後の課題。

ただ、僕はあまのじゃくな性質なので。

純粋に、売ること・興味を持ってもらうことに全特化したいわけでもないんすよね。

そういう骨組みなら、そもそも論として、ショート動画として提供したほうがマッチしているし。

いかんせん、日に日に書評にあたって、「読む」と「書く」の間にあるアイデアを可視化したいっていう欲求の高鳴りを感じているのです。

自己表現の一環的な?

売るベースで見たときの、その無駄とも思える行為。

なんだかんだ、好きなんすよね。

「わかった」という言葉は、恐ろしい。その瞬間、その刹那。何気なく放ったつもりの些細な一言であったとしても、途端に思考が停止する。似たような危険性をもつ言葉は世の中にたくさんあるが、よく目につくものとして、「泣ける」という言葉も該当するだろう。具体的に、世の中には何千何万と「泣ける」作品があって、しかして実際に「泣いて」しまうと、その作品の旨み全てが泣きどころポイントへと濃縮還元される。そう、元来作り手の表現したいものが別の志向性を含有しているはずだったとしてもだ。

このような言葉を用いることに対して良いか/悪いかという二元論を唱えることが本ページのテーマではないのだけれど、本来「語り得ぬ」はずの領域を無理やり「語り得る」世界へと次元を落として封じようとする世情は、両者の線引きを曖昧にする。そこから導かれる世界線が提供するのは、「わかっていない」ことを「わかった」と錯覚してしまう脆弱な安寧と、いくばくかの心許ない居心地だ。こうした不安定な土台を歩き回る危うさは、昨今の SNS における、細切れな情報量で簡潔に述べることを是とする行為に常に潜む。もちろん、情報感度の高い人だけが詳細を調べればいいという、ある種選民思想的に至るのは然るべき措置であって、いそがしいビジネスパーソン向けに時短で情報をお届けする有用性も十二分にうなずける。しかし、このような一直線で正解のみが許される世界では存在できないもの——それはまるで仮現運動のように、本来動いていないものが動いているように見える——の中にこそ、言葉の、いや、表現の美しさ、ひいては作品の存在意義があるのでなかろうかという思いが、本を読めば読むほど強く、解像度が高くなっている。

とはいえ前提条件として、『作家と読み手の関係性において、前者は、目/耳にしたら茫然自失するような作品を作りたいという熱量でして魂を削るものであって、後者は、そうしてできた成果物に無常の何がしかを見出すのために「わかりつつある」という言葉を駆使して成長し続ける』ことが成り立つ上でのお話だけれども。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない —— 『論理哲学論考』ルートヴィヒヴィトゲンシュタイン

「語り得ぬ」ことと、「語り得る」ことの線引きを明確にするためには愚直に学び続けるしかない。

僕は引用が嫌いだった。

猫のように、自由に生きていたかった。

要するに、われわれが自由であるのは、われわれの行為がみずからの人格の全体から発出し、これらの行為が人格の全体を表現する場合、そして、前者と後者のあいだに、作品と芸術家とのあいだに時に見られるあの定義しがたい類似が存在する場合である。
——『意識に直接与えられたものについての試論——時間と自由』、合田正人、平井靖史訳、ちくま学芸文庫、2002 年、pp. 191―192

人間はパーツの集合体であるが、関節がなければその機能を果たすことができない。人間らしい動きは、手首、肘、肩といった関節部の動きの結果として、規定される。それはまるで、肩を片方上げようとしたら、もう片方の肩を下げるような具合で。

しかし、人形は違う。肩を片方上げるだけでいい。そこに、人形と人間の大きな違いがある。

人形は、ひとつ一つの部位が独立した関係を保ちつつ、奇妙なハーモニーを奏でる。一方で、人間は他の関節との相互作用を生み出しながら動く。それはかつて、人間がポリス的動物であると遺したアリストテレスのように、人間は社会の中でしか生存できないことを遺伝子レベルで体に刻み込んでいるのだ。

それは、悲しくもあり、美しい。

小説とは「欲望の受け皿」である。とどのつまり、荒唐無稽なこじつけをいかに現実的なものとして表現するかどうかがキモとなる。だからこそ、その過程で用いられる歴史的考証とそれに付随する個人的な動機を比較した際に、後者の比重が高くなる。加えてそれは、親密な知人や肉親にさえも語ることができない粒度を持っていればいるほど、良い作品を生み出す要因となる。いわんや、作り手は語るに落ちることを極限まで忌避することで、非常に濃密なスープを皿に盛れる。

どう味わうかは客次第。マナー通りか、野生的か。とりわけ批評とは、このときに隠し味を見つけることを是とする。さらにそれが作り手すら混入させたことに気付けない素材であればあるほど、なおのことよし。小説は現実と違い、解釈違いの瑕疵という異物をあたたかく迎合する。それこそ、小説が小説たる所以だ。

では、批評するにあたり「小説を読む」必要があるが、このときに大事なことは、「小説を読むこと」と「小説を語ること」の摩訶不思議な関係性の中にこそ、「小説を読むこと」の本質があると認識することだろう。具体的にともすれば、「小説を読むこと」と「小説を語ること」は一見相異なる体験に見えるが、その実、まったく「同質」な体験なのである。もっというと、「小説を読むこと」は「小説を語る」ことでしか存在できず、「小説は語られるものとしか存在し得ない」という前提を成立させる。ただ、この前提をもってしても「小説を読むこと」と「小説を語ること」は依然として別次元ながら重なり合う。

このことだけが、何本か書評にトライしてわかりつつあるようなものである気がする。いかに近未来的な要素を織り込んだ作品といえど、語る上では、語り手の現時点での尺度でしか表現することはできない。それはまさしく、連綿と続く記憶の総集編である。この事実は、まるで呪詛のように語り手を締め付ける。知っていること以上に、知っていないことを語ることはできない。知っていないことは、知っていることからでしか捕捉できない。世の中は知らないことだらけであるという現実を受け入れ、弱さを受け入れ、「語り得る」ことと「語り得ぬ」ことの境目を見極める。つまるところ、小説とは記憶を頼りに、繰り返し繰り返し、アイヌ民謡のような色合いで語られるべき存在なのではないだろうか。

Revbooksという書評サイトを作りました。有益な知見をシェアした書評家が、その見返りを得られるようなサービスにしたいと思います。腰をすえつつ、時間をかけてじっくり育てていきます。

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冬の残香は影を薄め、春の兆しが立ち上る季節となりました。つい先日まで手放せなかったヒートテックはその使命を果たし終え、薄手の装いに衣替えしてもなお、額に汗がじんわりと滲みます。

滑らかな歩調で変わりゆく季節。見上げた空は、晴れ模様。

一日の始まりが清々しいものだと感じられるくらいには快復しました。これでやっと、人間らしい営みに戻ることができそうです。

なかなかどうして、やめるときも、すこやかなるときも、参拝することを誓った明神のおかげかもしれません。

◇◇

参拝は、すごく気持ちがよいことなのです。

筋張ったあたまが、鳴りをひそめて、自然と一体化してくれます。するとどうでしょう。「 」へと至る径が諸手を広げて迎え入れてくれるのです。

頭のモヤが、ひとつ、またひとつと霧消し、しなやかな体の動きを実現してくれます。

日常的にはびこる技術からの逃走。自然との調和。

きょうもきょうとて、ぶなんに生きていけそうな予感を孕んで——

神田明

何気ない日常を、何気ない感度で過ごすことは難しい。

思えばそれは、人間が文字というものに触れてしまったことに起因するのではないのだろうか。

経済、法律、市民。近代化に伴い、そういう にいやでも高度に抽象化された世界を「色眼鏡」で見るしかない、というより、そうせざるを得ない。世界の全てが object 化し、似たような class に分かれ、protect が存分に効いた capsule の中で汚れを知らないまいまま過ごすことが、至極当たり前な空間に置かれる。

しかしながら、精神疾患という流行病に一度でも汚染されると、private に見えていたはずの概念は実は public に汚染されていた変態破廉恥クソ野郎だと事後報告され、その汚れは他の class を無条件に override していく。

こうしてすべての概念は闘争状態に陥り、すべてを猜疑し、そこから逃走する権利を無条件に剥奪する。

疑い抜いた体は、煩悩と同じ数である 108 番目くらいの出汁をとった、もはや出汁と呼べるかすら怪しいレヴェルのでがらしに成り果てて、広大なゴミ捨て場へほっぽり捨てられる。

やけに淫雛な臭気が漂うゴミ捨て場の中で、一人たゆたう。それでも、世界は世界のありようを無条件に頭部に突きつけ、また新たな戦場へと無慈悲に駆り立てる。

全てはそんな繰り返し。

そして、こうした輪廻をさしたる問題もないように振る舞うことこそが、悠久にも思える時間を経てたどり着いた僕の生存戦略。

闘争からのいくばくかの逃走。この逃走の中にこそ、闘争へ至るための何かがあると思う。

「書き言葉」の登場により体系化した宗教や思想が生まれると、それらが経典として編纂され、こうして残された文章がコミュニティの繁栄と、国家の存亡を司ってきた。

いわば、「文字」は人間活動の発展を支える基礎インフラを形成しているわけなのだけれども、そんな超重要アイテムを、過渡期の現在 for free 感覚で自在に使えるような社会に生み出されてしまったことは、僕にとって苦痛でしかない。

そう、やたらめったら「文字」を書けば書くほど、いやな雰囲気が否応なしに付きまとうのだ。仄暗い陽炎のように世界が滲み出し、あるべきことを、あるべきままの形を残して伝えることができない現実が、無慈悲に頭をのぞかせる。

それがあたりまえだと割り切れたら、どれほど心が楽になれるのだろうか。

ただ paranoiac が発症する。そんな 自意識過剰 な自己パーソナリティにも腹がたつ。

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Who cares?
——世界はそれほどあなたに興味はない。

そういう非情さが、冷たい仮面を被った雑踏の色合いとほぼほぼ変わらない色素でもって、僕の世界を彩る。

だから僕はしばらく音楽と絵に溶け込むことにする。「文字」を書くより幾分心が休まるから。