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3年前のきょう、僕は殺された。

ものの見事だった。

純真無垢な殺意の証左は、ためらいなど微塵も感じさせないほど、(はや)く、鋭く、濁りなく、なめらかだった。

一瞬の出来事だった。

浅葱(あさぎ)色の着流しから生える四肢の駆動は、吐息の音が聞こえるほど静かで、美しかった。

あざやかな出来事だった。

一連の動作を走馬灯のように俯瞰すると、灰色の景色はそれ以外の色彩へと(せき)を切ったように移り変わった。

そう、生ける屍と化していた存在は、生ける(なにがし)へと変容を遂げた。

このようにして僕は、殺された。

だけど僕は、たぶん、僕を囲む世界も、幸福だ。

年を重ねることに、僕は戦慄します。そう、小説を読むために必要なエネルギーの代謝が、ことごとく落ちてしまうのです。

もちろん、単純にモチベーションが落ち込んでいるという意味合いではなく、むしろ、読みたい欲は年々まし続けてはいるのですが……若かりし頃には純粋無垢なおももちで接種できていた成分は、知識の固着化にともなって、ある種、老害化してしまっているのです。

具体的には、「〇〇は △△」という描写に触れた際に、それを自明のものとして処理できず、『いや、「〇〇は、□□ or ◇◇」』の方が妥当といったようなツッコミがとめどなく溢れてしまうのです。

つまりは、もしかしたら存在し得たはずの多様性を無意識レベルで殺してしまっているのです。

これは僕にとってゆゆしき事態で、 小説 を読んでいるのに 主義主張 を押し付けようとする 危険 な読み方に他ならず、そこに行き着くと個人間の枠組みを超えた論争に突入しかねないからです。

僕はあくまで、小説は個人レベルでとどまるべきものであって、そこにいかなる強制力も、効力ももってはならないというスタンスを保つので、だからこそ、身の危険を感じて読みにくくなってしまうのです。

ここでとるべき最良の戦略は思考の柔軟性の獲得であって、知識を一つの様態にとどめないことなので……

もちろん、俺らは抵抗するで、拳で

ではなくて、知識のアップデートで。

だからこそ、読書の難易度が上がっても読み続けなければいけないのかもしれません。

僕が紙の本が好きなのは、そこには確かな実態として、物理的な重さと、匂いと、手触りが存在しているからです。

そのような諸要素は、 強烈な読書体験 をするためには避けては通れません。

ここでいう強烈な読書体験というのは、本の一フレーズを頭に浮かべたときに、そこを読んでいたときの情景が刹那的に鮮明に浮き上がってくる状況を指しているのだけれど、不思議なことに、こういう体験はそれが発生しなかった状況と比較すると、内容理解の程度に雲泥の質を生じさせます。

つまりは、本を読んだときの場所、感情、体調、それらは読書の質に極めて大きく作用するということを意味します。

ということは、文字に触れたときの感じ方は時事刻々と変化してしまうのが常で、いかにしても定常状態に至ることは本来ありえません。もしもそんな境地に至ってしまったのならば、もはや読書などする必要のない 優れた 人でしょう。

しかしながら、僕は凡人にすぎないので、そんな領域に至ることはできません。

ならば、読書のタイミングで、その時々の状況に変化をもたらす特徴ベクトルを一つでも増やすことでしか、僕の理想とする読書ができないのです。

それを踏まえると、電子書籍の類というのは存在それ自体が均質で変化がないので、どうしても体質的に合わないのです。

実際は便利だから利用していますが、だけど僕は、紙の本が好きなのです。

いやほぉぉおおおお 🥳🥳🥳🥳🥳🥳🥳🥳🥳🥳

満員電車に長時間揺られていてもパニックに耐えられた。お薬を服用せずにいけたのは初。

いままでは、キツくなったら途中で下車して、お薬飲めたねして、休むを繰り返していたのだけれど、『きょうは調子もよさそうだし、ちょっちキチーけどお薬抜いてみるかー?』という、字面だけ見たらヤベーやつな香りを漂わせつつ、軽いノリでトライしたら、まさか耐えられるとは思いもしなかった。

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素直に嬉しい。

これが現状を鑑みた時の一言。

今までは先の見えない漠然とした不安におっかなびっくりな態度を余儀なくされ、救急車に運ばれたり、呼吸をするのもつれぇっていう日々を過ごしてきたけれど、一筋の光を見出せた気がする。

この状態を一過性にしないためにも、何故パニック症状に耐えられたのかについて深掘りする。

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結論、それは純粋に、パニックに付随する症状を受け入れられるようになったから。

吐き気、めまい、悪寒、心拍上昇、冷や汗、数多の症状が不快な四重奏を奏でるのがパニック症状。文字に書き起こしているこのタイミングですら音もなく忍び寄ってくる有様。

できることなら避けたい。だって苦しいから。こんなことを経験するくらいなら死んだ方がましと思えるほどに。

しかしながら人間というのはどうも 不誠実 で、どうしようもない程苦痛にまみれた現実を前にすると、10 数秒前には軽やかに動いていた はず の指先が鉛を括り付けられたかのように鈍化し、果ては硬直する。

そして、そこでわだかまっていたエネルギーは、エントロピー増大よろしく、To:苦痛へのベクトル変換を経て無秩序化され、体内はカオスに満ち溢れる。

これが非常に厄介で、このカオスを一度でも経験すると二度と元の 健全 な生活には戻れないのでは? と意識づけさせられてしまう。

万物は流転する

そう、元の生活に戻るなど 健全 だった日常生活においてもありはしないのに、パニックというあまりにも異質な体験は、過去の栄光にすがる英雄のような甘い毒を持つ。

淫雛な臭気は人をたぶらかし、正常な判断を奪う。

気をつけろ

パニックは、パニックでしかない。それ以上でも、それ以下でもない。

そこに意味はあらず、単なる一つの 生理現象 にすぎない。

🌅👺 や 🚽 と一緒。

パニックが起きたら、さもありなんという飄々な態度をとればいい。

時間がかかるかもしれない。

心配するな

人間は案外強靭にできていて苦難に立ち向かう力がある。

パニックになったらパニックになった分だけ、RPG ゲームのように経験値が増えて、パニックを発症しても経験則から乗り越えられる。

キツくなったら、逃げてもいい

いずれ受け入れられる日が来る。

自分を信じろ

自分のことを本当に信じてあげられる人は自分しかいない。

生きてるだけで、えらい

そう、生きてるだけで、えらい。

圧倒的感謝

僕はパニック症に罹患したことに対して、いまは感謝している。

拒絶ではなく許容

治すではなく解す

こういう貴重な体験を現在進行形でさせていただいているからだ。

僕はきょうの出来事を一生忘れないでしょう。それほどまでに、苛烈で、激烈で、身悶えるほどの快感を得たのです。それは、スモークとか、セックスとか、そういう即物的に得られるエクスタシーの概念が風化するほどの地脈を有し、身にまとっている衣服を脱ぎ捨て、原始へと立ち還り、今日へと連綿と続く歴史を隅々まで理解したかのような全能感に包まれた代物なのです。

この領域に至るまで苦節することはや数年。長いようで、短いような期間という陳腐な表現で形容してもなお、衝撃的な煌めきは鈍く光ることを知らず、思わず涙を流さずにはいられなかったのは 22:00 の UDX にて。

その歩道橋から眺める高架線の光が、濃度が、陽炎のようにゆらめいていた日々を穿つかのように、はっきりと、どっしりと、確かな実態を持って存在していたのです。

それは確かに、いままで感じることができていたはずの景色で、やっとのこと、なんら特別な措置を講じることもなく視ることができるようになったのです。

一歩、また一歩と、足の裏から心地よく跳ね返ってくる胎動は、ずっと歩いていたくなるほどの軽やかさをもって僕を鼓舞し、見上げた空は晴天。

もしかしたら、寝て起きたら、また新たな隘路へと足を踏み入れるかもしれません。

ただきょうは、すこしでも、自由になれたことが、何よりも、嬉しい。

お久しぶりの投稿という名の近況報告

健康で文化的な生活水準を維持することができる状態。

この状態から、

  • VTuber
  • ワッチャプリマジ!

の二要素によって、 【最低限度の生活】 を著しくレイプされたワイの近況報告を記します。しかしながら、これらを書き残したところで、ワイが費やした貴重な時間と、情熱と、幾ばくかの後悔が返ってくることはありませんが、そうすることでしか得られない成分が世の中にきっとあるので、それに期待することにします。

結論から述べますと、この場にて八つ当たり3150🤪ってことを、永遠と、つらつらと、愚痴のように述べるだけです。全くもって生産的なものを生み出していない行動に、わけもなく、なけなしの良心の呵責に苛まれそうになるのですが、ワイの精神衛生を極めてクリーンに浄化してくれるのでかしこ。

そんなこんなで本題に入ります。

VTuber→もぅ、可愛すぎるのが悪い😡 🤜🤛👊

VTuberの沼に浸かる=(更新頻度が激おち君)になっていることを身勝手に危惧し始めてきたので、とりあえずブログのレイアウトを変えてお茶を濁してみますが……

Not にんにんでござる! Yes ジャキンジャキンでござる!

風真いろは

上記のワードが呪詛のように頭の中を駆け巡るのです、キーボードから手が離れるたびに。

そうして、やる気スイッチがOffになります。食事をする気力、外出する意欲……欲という欲、ほぼ全ての欲が、この言葉を皮切りにふっと消え失せるのです。

生来の飽きっぽさを鑑みても、どこにも該当しないほどの無気力感。よく言えば夢心地。悪く言えば離人感。それはまるで自分の存在を外部から認識しているような。

どうしたものかと、考えるに、

もぅ、可愛すぎるのが悪い😡 🤜🤛👊

という、しょーもない結論に至ったのです。

まったく見ず知らずの他人に八つ当たりしたところで無益なことは重々承知の助であるけれど、愚痴をこぼすの気持ちええのです。

八つ当たり3150🤪

そうすることで、わずかながらの気力を取り戻せたのです。

お元気ですか? 僕はワッチャプリマジ! にハマりすぎてやばいです

そんな、VTuberにハマっている以上に、ワッチャプリマジ! に、ハマりすぎてやばいです。

大きいお友達がハマる理由をまじでわかってしまいました。

その理由は……

……

レディアントアビス

もぅ、可愛すぎるのが悪い😡 🤜🤛👊

ほんとうに、可愛すぎてやばい😡

キャラメイクするのほんとに楽しい。やばい。まじでやばいです(語彙力)。

ただ一つ苦言を呈すると、トレンドコーデ時に自分が好きでない組み合わせを半強制させられるのがほんとにきらいです🥶

ほんのわずかなワッチャを犠牲にすればいい話だけれど、トレンドからお気に入りのコーデがdisられている感覚がマージでいやなのです😱

好きなコーデを着てても認められていいじゃない。人間だもの。

マイノリティに優しい世界を希望します😠

ひさびさの投稿だからといって、取り立てて何かを書くわけでもなく、さりとて、何か書かないといけない気がして何かを書きましたけれど、結局愚痴ってる時が一番気持ちよいという学びを得ることができました🤔

寒い季節は、頭が痛くなるので辛いですね

この時期はほんっとに赤道近くの国に住みたくなります🤮

なんで、こんなに寒い日が続くのでしょうか😇

おしり。

「魂の」アップデート期間とかいう極度に胡散臭い修飾語を伴う文言は、リアリストの範疇におさまる僕からしたら絵空事以外のなにものでもなく、もっと言うと、空を軽やかに舞う羽鳥みたいにふわふわとした領域へと抵触することに対する「警告」を意味するのだけれども、ここ最近の私生活において、偶然にも、蓋然性が高まる、シンクロニシティの、未来の自分からの問いかけの、連続性の波にさらされていると、一体全体どういうことだか科学的根拠の存在しない部分にこそ、スピリチュアルな雰囲気に呑まれることでしか語り得ない色素の中にこそ、生きる上で大事な本質が存在するのではないのだろうかという「実態」が、仮想の紫煙と吐息に混じって空間を侵食し始めてきたので、記すことにす。

体調が良くなったり悪くなったり(ここで言う体調が良いっていうのは、例えるなら、外に飛び出て踊り狂いたいほどの、地球への一体感を感じられるほどの、サイケデリックス接種状態に近接できることを表す一方で、悪い日は「死にてぇ」という自殺念慮が極度に高められたバッドに入る感覚に近い)、それらはまるで波動のようにある特定の周期的な性質をもって、自身の内臓を、精神を駆け巡るエネルギー伝播へと移り変わる。

そういう繰り返しの日々の中で、当然目指すべき指向性は「バッドをいかに最小限に抑えるか」っていう要綱を得ることにつながるのは至極当然のように思うのだけど、これが実際、なかなか難しい。

バッドに入る前のマインドセットをいくら用意したところで、いざバッドに入ると、暖簾に腕押し、泥に灸、なんなら、マインドセットを用意したことに対するストレスで余計に落ち込む。仮に、このときに浸っていた状態を「負の」エネルギーとした場合——もちろん、強大な「正の」エネルギーにあてられる経験(アヤワスカ接種して自殺念慮がまるっと消えたやつ)があれば、そもそも論として解決されるべき問題ではあるのだろうけど——僕自身はそういう外部要素を利用せず、なんなら薬を服用せず、自分のことはあくまで内面で解決したいという身勝手な意志が働くのでかしこ。

となると、バッドに入ることそれ自体を「負」として捉えるのをやめることから始めなければならず、体調が良い日と悪い日の二元論で捉えるのではなくて、両方とも擬似的な「正」として次元を一つ落としてコントロールする必要性と、その適切な運用方法であってして、それはすなわち、新たな潜在意識を獲得するためのアップデート期間に該当するのではなかろうかということです。

ハイヤーセルフへのチャネルを開くために、「正」の坩堝から滲み出たエネルギーとうまく向き合う。これこそが今の僕の課題であり、生きやすい世界へと到達するための生涯にわたって向き合うべき最も大事な要件だと思うのです。

不安 ← not 解消 but 共存 = not easy

解消 = 生への渇望

共存 = 生への諦念 not equal 死 —— あきらめの境地に近し。

  • 周りは周り、自分は自分と明確な線引き

Cause?

  • 自分の領域を超えた努力をし続けてしまった末路

  • 自分一人でできるキャパシティを見誤り

How?

  • 呼吸/散歩/etc、今の自分ができることをひとつひとつ認識しながら実行+褒める(注)無理をしない範囲で。

    → めちゃくちゃ褒める(e.g. きょうは出歩けてえらい! 僕最強卍)。自己肯定感の復旧。

  • やれることが二転三転しても気にしない。全肯定 is.

    → 変な意味を見出そうとしない、何歳になろうが不安なものは不安。

  • 何もできなくなったら、何もしなくていい。そういう日もある。

    → 焦らない。これがマジで大事。無理したところで無理なもんは無理。

  • 自分の属性を理解する(外向/内向的?)

    → 無理して属性変化させる必要なし。人付き合いが苦手ならとことん苦手のままでいい(できない→🙅‍♀️自己否定 🙆‍♀️ 自己肯定:自分のことを褒めてあげられる存在は究極的に自分だけ)。Everything is ありのまま。

人生、なるようになる。そういうもん。

意志なきところに我が生涯あらず。

されど、人生。ことごとく拒絶。

灰は心、鉄は肉。

地の振る舞いはさまよう亡者にして、亡骸。

ならば問おう。

我が人生に意志はあるか?

答えよう、意志はなけれど意味はあると。

それすなわち、生きる意味をもってして意志に反逆せし赤十字。

これを抱いてただ生きる。

救いの神は己の意味。

これを隔ててただ生きる。

宇宙意志にして賛同せし意味。

ただ生きる。

これを真理にして、ただ生きる。

そこに意志も意味もいらず、ただ生きる。

一日一日。

その連綿と続く日々ごとの終に、

人生を完了させ充実させられたかどうか、

「私は十分に生きたのか?」

NOであると、

安直に答えられてしまうほどの軽率さ。

黙っていても明日は必ずくるという思考のぬるさ。

今を生きていないことを許容することができてしまうのは、

そこが僕の底なんだという哀れみと、

人生に対する絶望と、

それでいて、

僕が僕として機能するためには、

必要不可欠な、

不可避な、

ありのままの僕。

一生懸命生きようが生きまいが、

世界は大して変わらない。

それに気づいてしまった、

どうしようもない無力な僕。

いいじゃない、別に。

生きるって、そういうもんでしょ。

知らんけど。