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ここ最近の課題。

裸になることを恐れているのでは?

もちろん、物理的に裸になるっちゅう意味ではなく、精神的な意味でっていう。

ヘラヘラ笑ってフェイクで逃げて、なけなしのプライドを傷つけられることが許せていない。潜在意識に根付いたプライドはなかなかに捨てづらく、肝心なところで拒絶が先行してしまう。この行為がいかなる生産性もないと理解しているつもりでも、体が指令を聞いてくれていない。

教育的な意味で環境のせいにすることはいくらでもできるけど、それをしたところ過去は変えられないし、意味はない。だからといって、フェイクまみれの現状を打破できるには、あまりにもフェイクな世界に浸かりすぎてしまった。

もはや、自分自身が遺伝子レベルでフェイクを生成してしまっている。もう、生きることそれ自体がフェイクにすら錯覚しうるほどのレベルで。

それすなわち、

  • 生きている実感がもれなく希薄化
  • 私生活=(他人の絵空事)をふかん視点からのぞき込んでいるような浮遊感

「斜に構える」という言葉が、現状を指し示すワードとして正しいのか正しくないのか判別つかないけど、まっすぐ歩く方法がわからなくなってしまっているのは事実。

一直線に歩くことはあまり好みではないけど、ときには真っ直ぐ歩きたくもなるので処方 → 現実に対する無頓着からの脱却

  • 肉体的な衰えを最小限に抑えるためにちょくちょく運動・散歩から:メンタル VS. 体力
  • 一つ一つの呼吸を確かめながら行動

僕は、パニック障害持ちだ。

20代後半から発症し、30の今になっても、ときたま症状が忍び寄る。

症状がキツすぎて、死にたくなるときが何度もあった。

それでも、自分が死んだときの母の顔を想像したら、それだけは許されない気がしてできなかった。

そこに対して、自由を打ち砕かれる思いを抱き、パニックが起きて、また苦しむ。

そして、何事もなかったかのように5分くらいでよくなったりする。

そんな浅はかさによる自己嫌悪、そして、パニック。

そんな日々の繰り返し。

根本は何なのか、それを見つけて駆除しないと治らない。

そんなことばかりを考えていた。

投薬しながらだましだまし体を動かして、

よくなったりわるくなったりを繰り返して、

原因にメスを入れていた。

そんな折、約5年ですか。根源まで遡ったら、もっと前かもしれないけど。

とまぁ、それなりな長さなんすけど、

森田療法の思想に出会って、というより、そちらに魂が耳を傾けてくれた、という指向性が正しいかもしれないけど、

ありのままの自分を、受け入れられるか、受け入れられないか、そういう瀬戸際に立つことが許された地点があって、

ちょうどドンピシャのタイミングで、

THE BLUE HEARTS のロクデナシを、初めて聞いた。

閃光が走った。

初めてメロディに涙した。

まやかしなのかもしれない。それでも、何か惹かれるものがあるのは確かだった。

こういうロックな音楽性の中に、僕の根っこがあるんじゃねぇのかなと感じずにはいられなかった。

それから僕は、甲本ヒロトに憧れた。

これまた、初めての体験だった。

今、この瞬間をめいっぱい、ありのままを生きられる。ふっきれられる。

そういう人物に憧れていたからなのか。

はたまた、彼は、彼自身以外の何者でもないからなのか。

そう思えるようになったら、なんかしらんけど、現状を受け入れながら生きるのも悪くねーかなと、思えるようになった。

そしたら、ふっと、心が軽くなった。

しょーじき、今、この瞬間も症状が出てきてつらい。

でもそれは、今まで経験していたものとは180度ベクトルが反転した、心地よいつらさであって、

初めてパニックを受け入れられている実感が、実態として現れた、ロックなメロディと共に。

ありのままでいいじゃん

そんな姿を体現している甲本ヒロトは、僕にとってのスーパースターだ。

考えれば考えるほど、パニック障害に罹患した本当の理由がわかりやせん(´·ω·`)

とりたてて、人間関係に難があるわけでもなしに、

さりとて、仕事に詰まっているわけでもあるまいし、

原因論の立場から考えれば、何かしら原因があるからパニック障害が引き起こされたわけで、

目的論の立場から考えれば、パニック障害にかかることによって、何かから逃れようとしているかもしれないわけで、

まあ、あれあれこれこれ不確定要素を除外していきながら、内省していたわけなのですが、

その理由がつい先ほど、ボヤ騒ぎから漏れ出た白煙のような、そんななにかが視界の先にちょびっとだけ頭を出した瞬間があって、

それはなにかっちゅうと、多分おそらく、本を読んで書いていた? が主要な原因なのではないかということです。

結局のところ、本を読んで、そこから得たなにか表現したいものがあるんだけど、それを自分の理想とする純度100%の言語イメージ空間において、清廉さと正確性でもって表現することができていなくて、そういった類のもどかしさとか、恥? みたいなものの積み重ねが、ボディブローのように効いてきたんじゃねえかなぁと。

とまぁ、そんなことを考えてみたところで、結局、パニック障害が良くなるかどうかなんてわからないし、しかして、書いていたらじゃっかん、胸のつかえが落ちたのも事実だし。

自分の中に折り合いをつけながら、妥協しながら、書いていくしかないんすかねー。

どうしたもんかねー。

ワッカンネ-けど、時間をメチャンコかけて書き続けるしかなさそうですな(´·ω·`)

それが今の僕にあってる気がする。

※ 基本は紙媒体になります。

教養・雑学ノンフィクション系

ジャンル

  1. 技術
  2. 歴史
  3. 経済

逆にほぼゼロに等しいジャンルとしては、自己啓発系。こればっかりはどうも苦手。読んだらできた気になってしまうもので……

媒体

  1. 新書
  2. 文庫
  3. 単行

新書は一番手の収まりが良くて、図式と文字のバランスが最強。文字以上に図の存在は大事という認識なので、文庫だと図式を挿入するのは難しいし、かといって、単行では物理的に本が重すぎ、持ち運ぶケースが多い僕としてはあんまり好ましくない。

小説系

ジャンル

  1. SF
  2. ミステリー
  3. 日常

SF 好きな理由は、技術系が好みなのに起因。

とりわけ外国文学多め。論理構造が明確なタイプや、指示代名詞の扱いが厳格で読みやすいものが多いから。読みにくい文章あるあるとして、文の主体が文末や文中あっちこっちに散見されるみたいなとんでもから逃れられるケース多。

教養雑学系 VS 小説

二つの系統を比較したとき、どっちに比重を置いているのかって話……

の前に、これを述べるにも本の読み方の話をしないと説明が難しいので、まず先に読み方をどう切り替えているのか、述べることにす。

  • 教養・雑学、新書系:目次で全体像を脳内に構築 → 細部の確認
  • 小説:全体を一気読み(絶対に日を跨がせない)+世界観に自己を sync

新書系は目次に全てのエッセンスが詰まってるので、早めの段階で全体像をイメージでき、なおかつ章ごとの関係が小説と比較して疎になっているので、日を跨いでも気楽に読める。

その点、小説は特殊なケースを除いて、前後文章間の関係性が密になっているので、日を跨いで読むと、『なんで主人公こんなことなってんの?』ってケース多。

加えて、年を重ねるごとに小説を読むときの疲労感——世界観 sync で形成される風景の解像度が上がるにつれて、より肥大化する車酔いみたいな——がすごくて、普段は教養・雑学系多め。

小説読みたい欲求と身体の乖離が激しくて悲しい……

暫定はこんな感じだけど、10 年後はどうなっているのか。今から楽しみではある。

人生には3つの坂がある。

上り調子の上り坂、下り調子の下り坂、そして、その間に於ける特異点としてのまさか。

青天霹靂/予想外/不意/やにわに/いきなり/

そんな言葉群を内包するまさか、そして、他の坂から遊離したまさか。

まさかofまさか。

まさか’sシュタルト崩壊→パニック障害? 到来

悪寒/目眩/冷や汗/吐き気→正味、絶望しか勝たん。

●亀製麺のぶっかけ並を一口含んだだけで吐き気するし、キーボードは休み休みでないと打てないし、仕事もろくにできん。息を吸うにしても酸素濃度低すぎて頭痛あなるし、眠ろうとして横になっても三半規管が揺らされて吐き気gg。

あまりに調子悪すぎて息が出来なさすぎて胸痛すぎて救急車呼んでも、パルスオキシメータのスコアは99%。心電、エコーとっても「特に問題ないですねー」。もんだいあるからよんでるんじゃい(´·ω·`)

あの発作がまた起きたらどうしよって考えたら外にも出れんし。

しかたねーから症状をぐぐってみたら、パニック障害該当項目にドンピシャで全弾ヒット。

あした、調子がよかったらメンタルクリニック予約とるんごねぇ、とれるかわからんけど。

早く元の体調に戻りてぇ。

僕が本を継続的にがっつり読み始めたのはちょうど今から3年前。

その当時は活字という活字にほとんど触れていなくて、なんとかない袖をふるったとしても著名人の有料メルマガとか、ニュースアプリを斜め読みする程度。別段その生活に不自由を感じるわけでもなく、明確な目的意識もないままフリーでWebサイトをシコシコ作っていたのですが……

Judgment Dayの襲来

何の予兆もなく視界の先がブラックアウトして救急搬送。

目が覚めた時には病院ベッドwith点滴。

どうやら、自分の認知してない深層の部分で心的ストレスが溜まっているらしいとのお達しを下され、療養することになったのです。しかしながら、やっかいなことに根がクソマジメな性分なので何かしていないと落ち着かない。そこで白羽の矢が立ったのが読書でした。身体に負荷をかけず、かつ、気晴らしができるもので。

始まりは不純

とはいえ読書をするにしても、読書の仕方、いわんや、本の選び方がわからない。学生の時にSF/ミステリー小説は浴びるように読んでいたのですが、別に好きだったからという理由ではなく、周りの環境に合わせてそうならざるを得なかった側面が強かったので、とにかく二つの選択肢を想像。

  • How to 読書をググりにググって最適解を一直線に進む
  • 適当に選んだ棚のはじからはじまで

個人的にはググるのが得意なので前者のタイプを好むのですが、そういう急性な捉え方して倒れたことを鑑み、時間も腐るほどあったので後者を選ぶ。これが功を奏したというか、飽き性の自分に合っていたというか、とんとん拍子であれよあれよと読み続け、いまや年間700冊超えても苦じゃなくなったのです。

というのが、大まかな流れ。

本好きが高じて自分用に書籍レビューサイト作った件とか、実際にどういう読み方をしているのかとか別に書けたらと思う。

書いていたら若干調子が戻ってきた。よかった。

何者でもない僕が、何者かになるために手に取ったのは、本という羅針盤だ。

いまは鈍く輝くそのアイテムを片手に、時折、

『自分の行き着く先は、果たして何処なのだろうか』

と、考えてしまう。

道中、果てなき知識の宝に感動し、一方で、果てなき荒野に絶望する。

その日々の繰り返し。

そうして行き着いた先で航路を振り返ったとき、回り回って、1 ナノメートルも進んでいないかもしれない。

その恐怖が、常にのしかかって、羅針盤を支える手が震える時がある。

それでもなお、形のない何かが、離してはいけないと、語りかける。

僕が、僕として生まれてきた使命だと、言い聞かせてくる。

ただ、ひたすら進み続ける。

それこそ、手に抱く羅針盤を、一生をかけて磨き上げるための僕の航海なのかもしれない。

「言葉で世界を変える」

書籍レビューサイトRevbooksを制作するにあたって、いや、僕が小さい頃から意識しているものとして、

「言葉で世界を変える」

が、根底にあります。

いつからそれを意識し始めたかは定かではありません。

友達に文章を褒められたときか、はたまた、校内放送で自分の文章を読まれたときか。

ただ、そのワードがいつの間にか僕を僕として形成していたことは確かです。

もちろん、そんなことが現実に反映されないなんてことは百も承知ですが、それでも、書き続ける。

深い意味なんてありません。

これは僕の単なるエゴです。

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つい先日、そんな僕のビジョンに賛同してくれているスタッフから、

「初めてアフィの収益が発生した!! ありがとう😊」

という旨の連絡がありました。

スマホの通知越しに僕はポカンとして、眠気まなこを擦ると、徐々に自分のことのように沸き起こってくる多幸感。

「本を読んで、言葉を紡いで、お金を得る」

労働の対価としてではなく、自分のスキルを高めるための過程として。

そんな幸せな環境づくりの一助に僕が携われたことを心の底から嬉しく思うとともに、書籍を購入していただいた方に感謝の言葉と、僕のわがままに付き合ってくれるスタッフ、サイトを見ていただいている方に、この場を借りて感謝を捧げます。

初めは自分1人のスキルだけ上がればいいやと思っていたステップから、スタッフにもっと喜んでほしいという意識へと変化。

コミュニティ愛というものでしょうか。

僕は愛とはほど遠い存在だと思っていましたが、そうではなかったみたいです。

それはもしかしたら、僕のビジョンを達成するには1人の力では駄目だということを意識した、ある種の諦めと、開き直りに近いのかもしれません。

判断するには僕はあまりにも無力。

だからこそ、力を借りながら、できることを頑張る。

身近な人から笑顔にすることを忘れずに取り組んでいきたい。

そんなふうに思えた一日でした。

謝辞

このたび、個人制作している書籍レビューサイトRevbooksが 1 万 PV/30d を達成することができました 🎉🎊。

数字としてちょっとづつ結果が出てくれるのはモチベーションに繋がっているし、なにより、熱しやすくて冷めやすい僕が同じことを続けられているのも、
本というテーマのおかげなのかなと思ったりしています。

本って素晴らしいっす。

また、いつもサイトをご覧いただいている皆様、本当にありがとうございます。これからも Revbooks をよろしくお願いします。

制作した経緯

そもそも制作し始めた経緯としては、精神的に不安定だった時期に本に救われ、何かしら恩返しをしたいという動機が生まれたことにあります。

同時期に python(Django)に出会い、

「Django 使って制作してみるかー」

というモチベーションから制作開始。

制作当初はもちろん、Django を利用したサイト制作の知見はゼロ

  • class と function どう使い分けるの?
  • middleware どう書くの?
  • そもそも deploy どうするの?

右も左も分からない状態から、google 検索を頼りに試行錯誤しながら今に至る。

現在、記事更新の間が空いてしまったりして安定した PV 数を得ることができていませんが、
どんなに長く間が開いたとしても途中で止めずに更新し続けることが大事という知見を得られたのは、
個人サイトを初めて運用した経験として一番大きな成果物なのかなと思ったりしてます。

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TODO:

コンテンツの拡充もさることながら、現状、social media 経由でのサイト流入がメインどころなので、最終的に検索ボックスからのサイト流入に落ち着かせること。

そのためにも、TTFB、CDN 導入といった SEO 面での課題解決、💩 クエリ撲滅、rest-framework の中が見れていないのでがっつり見る。

MISSION:

本の魅力を感じられる機能づくり。

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1 万 PV というのは僕にとって通過点に過ぎないので、今後もどんどん伸ばしていきたいと思います。

まだまだ先は長いですが、今後もコツコツと更新していきますので、引き続き Revbooks をお願いします。

next 100kPV

自己紹介の続き

前回の自己紹介の続き。

プログラミングのプの字も知らなかった僕は、とりあえず HTML + CSS の本を購入して写経して、なんとか静的サイトを作れるレベルにまで達したころ、その知識でいろんな友人のサイト制作に携わっていたのですが、その中の一つの企業さんから、

「社内ブログ開きたいんやけど、お前作れんの?」

との案件をいただく。

0 コンマ何秒かの沈黙のあと、

「余裕っす」

と、僕は返事。このとき、内心はめっちゃ焦っていたのを今でも覚えている。

というのも、その当時のスキルセットを再現するなら、

・HTML, CSS, jQuery(カルーセル動かせる)

くらいの、ほんとに駆け出しレベル。SPA 構成も知らんし、なんなら、全ページを.html で作ればよくね? とかいうほどのとんでもレベル。

だがしかし、はったりをかますことだけには長けていたので(後から担当の人に聞いたけど、このときめっちゃ手が震えてて笑いそうになった、らしい、フザケンナ)、とりあえず、家にそっこーで帰ってブログの作り方を検索し、PHP というやつがどうも使えるらしいと知った僕は、その足で本屋に行って、PHP と WordPress の本を購入。

んで、キーボードを打ってる夢で起きるとかいう生活を 3 カ月くらい続けたのち、

「できたやで」

と、MacBook Air のモニターを見せながら提示。

「えーやん、じゃあ、ネットショップも作ってよ」

「ファッ」

みたいな感じで、いろいろとこなしていったわけなのです。

( ^ ω ^)・・・

閑話休題

とにもかくにも、目の前の課題をひたすら消化した結果いまに至るというものなので、体系的な勉強という勉強をしてこなかったのですが、このときに培った知見みたいなもの書かずにはいられなくなったので書くことにするというトートロジー的な勢いで本題へと移る。

本題

プログラミングを独学というか、プログラミングをするにあたって、

厳密な PDCA サイクルとは違うけど、

Plan(実装したいものを計画)→Do(実装)→Check(実装物の評価)→Action(改善)

というものをたどっていくと思います。具体的に述べるなら、

会員制サイトを作る場合、会員の register 機能を追加したい(Plan)→ 実際にプログラムを組む(Do)→validation エラー、スペルミス等の実装上のミスを確認(check)→ 改善(Action)

という流れ。

ここで、いっつもぶち当たったのが、check 段階のエラーコードが出てきた場合。

プログラミング始めたてのころ、『エラーコード 解決』と日本語で検索して、同じようなところでつまずいているであろう人の質問:「○○ を直すにはどうしたらいいですか?」 っていうタイトルを見つけて意気揚々と解答欄にスクロールすると、

○○ ができないとかセンスがない

そもそも ○○ の意味って何?

。。。。。。

。。。

違う、そうじゃない

鈴木 雅之

という思いを抱きつつ、眠れぬ夜を過ごしていたのですが……

あくる日、

『エラーコードが英語なんだからわざわざ日本語で検索する必要なくね?』 っていう

我、天啓を得たり

龍が如く

感じで、google の検索結果を英語優先にして、エラーコードを直接打ったら、あら不思議、answer に解決策がそっくりそのままのっているではありませんか。

といっても、コード前後の英語がわけわかめ。

それもそのはず、プログラミング始めたての頃は TOEIC のスコアが 465 点という、英検換算で準 2 級レベル。これだとせっかく調べてもあとあと苦労しそうだなーってことで、プログラミングと並行して英語も勉強、んで、3 カ月後に 620 点 → 半年後 830 点と、読むだけに関しては苦労しない程度にまで進化(ロバートヒルキ本にはクッソお世話になりました)。

そこからは、新しい言語に触れる際も YouTube で crash course をあさったり、ときどき、English dub のアニメを見たりして英語には毎日ふれるようにしている。ただ、いまだもって長文を書くとなると一苦労。

まとめると、プログラミングを独習で行うなら、英語サイトで検索すればおkっていう雑いやつ。

加えて、エラーが発生したとき萎えずに自分で調べられるかどうかが、独習できるかどうかの分岐点。あきらめずに調べまくれば、おのずと検索精度についても上昇していくもの。

君子時詘則詘、時伸則伸也。

努力と忍耐は大事ってはっきりわかんだね。

結局のところ、真っ直ぐに一直線にゴールに向かう道を探すってよりかは、回り道した結果としてゴールにたどり着く方が多かったかなと思ったりする。