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小説を読むときに僕が考えていること

小説とは「欲望の受け皿」である。とどのつまり、荒唐無稽なこじつけをいかに現実的なものとして表現するかどうかがキモとなる。だからこそ、その過程で用いられる歴史的考証とそれに付随する個人的な動機を比較した際に、後者の比重が高くなる。加えてそれは、親密な知人や肉親にさえも語ることができない粒度を持っていればいるほど、良い作品を生み出す要因となる。いわんや、作り手は語るに落ちることを極限まで忌避することで、非常に濃密なスープを皿に盛れる。

どう味わうかは客次第。マナー通りか、野生的か。とりわけ批評とは、このときに隠し味を見つけることを是とする。さらにそれが作り手すら混入させたことに気付けない素材であればあるほど、なおのことよし。小説は現実と違い、解釈違いの瑕疵という異物をあたたかく迎合する。それこそ、小説が小説たる所以だ。

では、批評するにあたり「小説を読む」必要があるが、このときに大事なことは、「小説を読むこと」と「小説を語ること」の摩訶不思議な関係性の中にこそ、「小説を読むこと」の本質があると認識することだろう。具体的にともすれば、「小説を読むこと」と「小説を語ること」は一見相異なる体験に見えるが、その実、まったく「同質」な体験なのである。もっというと、「小説を読むこと」は「小説を語る」ことでしか存在できず、「小説は語られるものとしか存在し得ない」という前提を成立させる。ただ、この前提をもってしても「小説を読むこと」と「小説を語ること」は依然として別次元ながら重なり合う。

このことだけが、何本か書評にトライしてわかりつつあるようなものである気がする。いかに近未来的な要素を織り込んだ作品といえど、語る上では、語り手の現時点での尺度でしか表現することはできない。それはまさしく、連綿と続く記憶の総集編である。この事実は、まるで呪詛のように語り手を締め付ける。知っていること以上に、知っていないことを語ることはできない。知っていないことは、知っていることからでしか捕捉できない。世の中は知らないことだらけであるという現実を受け入れ、弱さを受け入れ、「語り得る」ことと「語り得ぬ」ことの境目を見極める。つまるところ、小説とは記憶を頼りに、繰り返し繰り返し、アイヌ民謡のような色合いで語られるべき存在なのではないだろうか。