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言葉の奥に潜むコトバに触れる

「わかった」という言葉は、恐ろしい。その瞬間、その刹那。何気なく放ったつもりの些細な一言であったとしても、途端に思考が停止する。似たような危険性をもつ言葉は世の中にたくさんあるが、よく目につくものとして、「泣ける」という言葉も該当するだろう。具体的に、世の中には何千何万と「泣ける」作品があって、しかして実際に「泣いて」しまうと、その作品の旨み全てが泣きどころポイントへと濃縮還元される。そう、元来作り手の表現したいものが別の志向性を含有しているはずだったとしてもだ。

このような言葉を用いることに対して良いか/悪いかという二元論を唱えることが本ページのテーマではないのだけれど、本来「語り得ぬ」はずの領域を無理やり「語り得る」世界へと次元を落として封じようとする世情は、両者の線引きを曖昧にする。そこから導かれる世界線が提供するのは、「わかっていない」ことを「わかった」と錯覚してしまう脆弱な安寧と、いくばくかの心許ない居心地だ。こうした不安定な土台を歩き回る危うさは、昨今のSNSにおける、細切れな情報量で簡潔に述べることを是とする行為に常に潜む。もちろん、情報感度の高い人だけが詳細を調べればいいという、ある種選民思想的に至るのは然るべき措置であって、いそがしいビジネスパーソン向けに時短で情報をお届けする有用性も十二分にうなずける。しかし、このような一直線で正解のみが許される世界では存在できないもの——それはまるで仮現運動のように、本来動いていないものが動いているように見える——の中にこそ、言葉の、いや、表現の美しさ、ひいては作品の存在意義があるのでなかろうかという思いが、本を読めば読むほど強く、解像度が高くなっている。

とはいえ前提条件として、『作家と読み手の関係性において、前者は、目/耳にしたら茫然自失するような作品を作りたいという熱量でして魂を削るものであって、後者は、そうしてできた成果物に無常の何がしかを見出すのために「わかりつつある」という言葉を駆使して成長し続ける』ことが成り立つ上でのお話だけれども。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない —— 『論理哲学論考』ルートヴィヒヴィトゲンシュタイン

「語り得ぬ」ことと、「語り得る」ことの線引きを明確にするためには愚直に学び続けるしかない。